2015/05/15

vol.6寄稿者&作品紹介22 大西寿男さん

小誌今号巻末にある「参加者のプロフィール」で、大西寿男さんは<生まれ育った神戸の街の震災を、20年経って、ようやく表現できました>と記しています。あの日の朝、寝ぼけ眼で見たブラウン管の光景。...その後現地入りしてレポートした筑紫哲也さんが「まるで温泉街にきたようだ」、と発言したのはリアルタイムで見ました。ものすごいバッシングを受けましたが(当時SNSがあったらどうなっていただろう...)、私が記憶するかぎりではたしか杉尾秀哉さんも現地入りして「大好きな神戸がこんなことになって悲しいです」と発言したら「カッコつけたコートの男が他人事のように」みたいなバッシングされていた。小谷真生子さんも叩かれていたような...。

っていうか、つまり在京マスコミが現地入りしてなに言っても全滅、そんな空気だったような記憶があります。しばらくしてからの田中康夫さんのボランティア活動は、好意的に紹介されていたけれど。そんなことを、大西さんの今号への寄稿作を読んで強く思ったのでした。作品内にも、古い友人関係の郁弥と幸太朗が、その日の実体験について言い合う場面が出てきます。<なんでや。おまえはちゃうやん。おらんかったやんか>と言った幸太朗に、郁弥は<それでも親兄姉はこっちやで。生まれ育ったふるさとやもん。たしかにおれは被災者やない。でもな、おれはおれで、第三者でもないねん>と感情を抑え気味に言い返す...。

大西さんはずいぶん悩み、このテーマの小説を書く決心をしたようでした。レポートやエッセイだったら全然違う展開になっていたように思いますが、震災について書くこと=小説として人間関係を細やかに描くこと、とお考えになったのでは、と。でっ、もし大西さんが震災直後、あるいは数年後にこのような作品に挑んでいたらどうだったのかな、とも。...それにしてもあれから20年。1995年というと、年初に阪神大震災があって、3月には地下鉄サリン事件、その年にはWindows 95も発売、みたいなパッケージング語られ化されつつありますが、じゃ、2月は?

日本のプロ野球とマスコミに石もて追われた野茂英雄が2月8日にドジャースと980万円でマイナー契約、13日に会見を開きましたよ。イチローの年間打率は342。...秋には日本でみんなが「NOMO!」とか。マスコミのあの手の平返しは忘れない。...あっ、本作のタイトルに<before>とあるのは、まだ公にされていない<after>と対比させてのこと!? 大西さん、もし完成させたらぜひなんらかのかたちで発表してください!


 ぼくらはひらりひらりと身をひるがえしながら、不敵な気分に酔いしれて、あたかもニューヨークやロンドンのソーホーを歩く足どりで、青山や渋谷、大学に近い池袋あたりを闊歩した。いつしかそこに、大阪から来た二学年下の麻美が加わった。幸太朗は麻美に夢中になった。ぞっこんだったといっていい。対等だった三人の関係のなかで、はからずもぼくは、幸太朗・麻美それぞれからなにくれとなく相談を受ける役になっていった。
 大学卒業後も、ぼくらは依然として東京で、ノーテンキで牧歌的な二〇代を生きていた。時代は昭和から平成へと移り変わっていた。ベルリンの壁は崩れ、ソ連も消滅した。ぼくと麻美は前後してマスコミ業界の片隅にもぐりこみ、幸太朗は中堅の商社で頭角をあらわしていた。バブル経済全盛のころで、ぼくらは一の万能感にとらわれていたのかもしれない。大地震の不安はあったが、それは東日本大震災ではなく、もっと素朴な直下型地震のはずだった。おまけにそれは東京に暮らすぼくらの側の不安であって、ふるさとである神戸はいつまでも安泰であるはずだった。

 
ウィッチンケア第6号「before ──冷麺屋の夜」(P132〜P141)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
『「冬の兵士」の肉声を読む』/「棟梁のこころ──日本で木造住宅を建てる、ということ」/「わたしの考古学 season 1:イノセント・サークル

Vol.9 Coming! 20180401

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