2015/05/29

vol.6寄稿者&作品紹介37 多田洋一

※今回の多田洋一の寄稿作については、三浦恵美子さんが紹介文を書いてくださいました。感謝!

意外に(…と言っては失礼にあたるのかもしれませんが)、多田洋一さんの作品群の通奏低音は、「ハードボイルド」だと思うのです。どこが「ハードボイルド」なのか、というと。語り手である「僕」のまわりには主に三種類の女性が存在しています(乱暴なくくりですみません多田さん)。一番目には、名前の呼び捨てで表記される女性。彼女と僕は、現在は別れているとしても過去に深い絆で結ばれていたことがあり、僕は今も、どこか彼女への思いを残している。二番目に、名字の呼び捨てで表記される「女(おんな)」。ある種の関係を結んだことがある(結んでいる)(結ぶだろう)にせよ結局、現在の僕にとっては関係が浅くて遠い、あるいは、‘都合がいいだけ’の相手。三番目に、名字に「さん」付けで表記される女性。僕にとって「他者」である女性です。この他者としての女性が物語の中心にフォーカスされる場合、彼女は、性的関係があるにせよないにせよ、僕との間に絶妙の距離を保ち、緊張感を帯びた存在として立ち現れてくる。三番目の女性がメインキャラクターとして登場するのは、ウィッチンケア第1号掲載の中編『チャイムは誰が』(「鉦田さん」)と、今回第6号の『幻アルバム』(「由比野さん」)です。そして、この中の二番目の類型の女性、つまり女性というより「女(おんな)」として名字を呼び捨てにされる存在、あるいはただ「(どこどこの)女」と呼ばれるだけの存在が、前景にせよ後景にせよ多田さんの作品の中には必ず顔を出すというところに、私は、かなり強い「ハードボイルド性」を感じるのでありました。あと、「僕」によるモノローグの、どこかひっかかりの多い、ラップ調(!?)とも内省的ともいえそうな‘癖’のある文体もまた、文字通り、ではないかもしれないけれど「ハードボイルド」だなあ、と。

ちなみに、いちばんハードボイルド度が高いと思ったのは第2号の『まぶちさん』かな。逆に、第三の類型の、名字に「さん」付けの女性がメインキャラとして登場する作品は、ハードボイルド度は低い。特に、文体の角がとれて平明になった最新作『幻アルバム』では、代わりに、多田さんの作品の「基本モチーフ」が、大々的に、シンプルなかたちで前面に出てきた感があります(勝手に「基本モチーフ」なんて言っちゃってごめんなさい!まぁ、言わせといて下さい)。

語り手である「僕」は、過去に悔恨の根を残していて、今、屈託を抱えて生きている。まるで喉にささった魚の骨みたいに生理的にも心理的にも煩わしく厄介な「過去」を、今、いかに清算するか。それが、多田さんの作品の骨格となっている基本モチーフだと思うのです。たとえば第1号『チャイムは誰が』だと、「過去」とそこからの解放を象徴する鍵は、遠い昔パソコン通信の会議室でかすかな交流を持った「SD」というハンドルネームの‘女性’なのだけれど、いくつかのトラップ、いくつかの錯誤を経て、「決着」ははぐらかされる。第3号『きれいごとで語るのは』だと、「過去」を清算しようとしているのは語り手のかつての彼女であって語り手ではなく、語り手はといえば思いがけず事態に巻き込まれ傍らで傍観しつつ逡巡し、最後は‘逃げる’役どころ。第4号『危険な水面』でも同様に、錯綜する事態に‘巻き込まれた’語り手は、最後に‘逃げる’。第5号『萌とピリオド』では、決着をすり替えた果てに偶然が重なり、肉体的な痛みと変形を伴って、「過去」と「未来」が「断絶」する。ところが最新号(第6号)『幻アルバム』では、語り手「僕」がきっぱりと「過去」と縁を切り、まだ見ぬ「未来」へと舵を切る過程が描かれる。

どうしようもない鬱屈とそこからの解放をめぐって、「僕」のモノローグが繰り広げられる。そこにちりばめられるのは、具体的な街の風景、店の名前、事件の記憶(これらは「暗示」されるだけの場合も多い)、そして、音楽をめぐる固有名詞群。取り返しのつかない「時間」の痕跡が集積し、その先に、「未来」への手掛かりがかすかに浮かび上がる。

多田さん、特に3号以降は、他の寄稿者と同様のかなり少ない字数でしか作品を書いていないようですけれど、第1号『チャイムは誰が』、第2号『まぶちさん』あたりで垣間見える「構成力」は、中編以上で初めて真価を発揮するのでは。ぜひ、発行人の特権で、次回以降はもう少し長いのを書いて下さい〜。てなところで。
 【文・三浦恵美子


 チェックアウトしてタクシーで吉祥寺に向かった。高井戸ICの近くで渋滞に巻き込まれた。沈んだ目で窓の外を眺めていた彼女が突然の笑顔で僕に言った。
「ほんとうにいいアルバムをつくりたかっただけ。あの頃はそれで世界が変わると思った」
 そしてすぐにまた押し黙った。
 たぶん僕は「ですよね」とこたえたはず。でっ、それはかなりの本音だった。アルバムという単位にこだわるのはバンドサウンドへの固執と同じで彼女のスクエアさだと思ったけれど、とにかく彼女は音楽をつくりたかったのだ。トレント・レズナーやリチャード・D・ジェームスも最初はTシャツやキーホルダーやトートバッグなんかじゃなく世界を変える音楽をつくりたかっただけ、といまも僕は信じている。
 彼女にはできなかった(そして僕は彼女の企みの役に立たなかった)。世界は世界を変えられる人にしか変えられない。世界を変えられない人が世界を変えようとしても手痛く傷つくだけ。世界はびくともしない。


ウィッチンケア第6号「幻アルバム」(P222〜P234)より引用
http://yoichijerry.tumblr.com/post/115274087373/6-2015-4-1

cf.
チャイムは誰が」/「まぶちさん」/「きれいごとで語るのは」/「危険な水面」/「萌とピリオド

Vol.8 Coming! 20170401

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